死と覚醒

覚醒は、生ではなくむしろ死に似ている。
肉体が生きている間に死のプロセスを経るコトが覚醒だからだ。


「一粒の麦もし地におちて死なずぱ、ただ一つにてあらん。死なぱ多くの実を結ぶべし」
という聖句がある。死のプロセスにおいて不死である「これ」が目覚めるのだ。


「死」が文化から追いやられている。
臭いものに蓋をするように、「死」が意識から排除されてしまった。


「生」だけが見える意識には「為すコト」だけが見え、「在るコト」が見えない。
「死」後の世界も「生」の延長になる。「在るコト」として見る時、死はどう立ち顕われるか?


死が祝祭であると分かち合えたら、意識はどんなにもっと自由になるだろうか?