星の教団解散宣言

久しぶりに、クリシュナムルティーの「星の教団解散宣言」を読みたくなった。
ある出来事が進行中で、私の中に「組織と運動」への凄まじい「抵抗」が生じているからだ。


私は言明する。<真理>はそこへ通ずるいかなる道も持たない領域である、と。いかなる道をたどろうとも、いかなる宗教、いかなる教派によろうとも、諸君はその領域へ近づくことはできない。これが私の見解であり、私はこの見解を絶対かつ無条件に確信している。<真理>は限りないものであり、無制約的なものであり、いかなる道によっても近づきえないものなのであって,したがってそれは組織化されえないものなのである。それゆえ,ある特定の道をたどるように人々を指導し,あるいは強制するようないかなる組織も形成されるべきではないのである。諸君がまず最初にこのことを理解されるならば、あるひとつの信念を組織化することがいかに不可能なことであるか、おわかりになることでしょう。信念は純粋に個人的な事柄であり,それゆえ組織化したりすることはできないし、またすべきでもないのである。ひとたび組織化したならば,信念は血の通わない,凝り固まったものとなってしまうであろう。それは、他人におしつける教義に、教派に、宗教になってしまうのだ。ところがこれこそが今、世界中であらゆる人々がなさんと企てていることに他ならない。<真理>は狭隘かされ、弱い人々、たまさかに不満をくゆらせる人々の慰みものとなってしまうのだ。<真理>は諸君のところまで引きづりおろせるものではない。そうではなくて、各人ひとりひとりがそこまでたどりつくよう精進しなければならないものなのだ。

私は、諸君が私の言うところに注意を払われるか払われないか、そのことに興味がない。私はこの世で、あるひとつのことをなしたいと思う。わたしはそのことにたゆむことなく専念するつもりである。私はある根本的なひとつのことにのみ関心を持っている。<人間を自由たらしめること>、すなわちこれである。

私は自由であり、何ら制約されておらず、全体であり、部分的でも相対的なものでもない、一個の全体としての、永遠の<真理>であるがゆえに、私は私を理解しようとする人々もまた、自由であることを願うのである。私に従おうとしたり、私を使って、獄舎に等しい宗教や教団を作り出そうとするような人々を私は望まないのだ。人々はむしろ、すべての恐怖から,自由であるべきなのせある。ー宗教の恐怖から、救済の恐怖から、霊性の恐怖から、愛の恐怖から、死の恐怖から、そして生そのものの恐怖から。芸術家が、画を描くこと自体が楽しいが故に、それが彼の自己表現であり、栄光であり、幸福であるが故に画を描くように、そのように私も行うのであって、何らかの見返りを求めて行うのではない。諸君は、諸君を霊性へ導いてくれると諸君が考える権威や、その権威に慣れ親しんでしまっている。諸君は他の誰かが、その驚嘆すべき力ー奇跡ーによって、<幸福の国>である永遠の自由の領域へ諸君を連れていってくれるものと考え、またそう望んでいる。諸君の人生に対する見方全体が、そのような権威に基づいて行われているのだ。

いかなる人間も、外側から諸君を自由にすることは出来ない。組織化された崇拝も、大儀への献身も諸君を自由にはしない。組織を作り上げてみても、仕事に没頭してみても諸君は自由にはなれないのだ。諸君は文字を打つためにタイプライターを使用する。しかし諸君はそれを祭壇に祭りあげ、崇拝したりはしないであろう。しかし組織が諸君の主要関心事となるや、諸君はこれと全く同じことを行うのだ。「メンバーの数はどれくらいですか」,これがすべての新聞記者が私に聞く最初の質問である。「信者は何人ですか。その数によって、あなたの説くところが真実か虚偽か判断しましょう」。何人いるかなどわたしは知りはしないし,私にとってそんなことはどうでもよいのだ。自由になった人間が一人でもいさえすれば、それだけでもう十分である・・・・・・

 繰り返して言う。諸君はこう考えておられる。ある特定の人々のみが<幸福の王国>への鍵を持っていると。誰もそんなものは持ってはいない。誰一人としてそんな鍵を持つ資格などありはしないのだ。鍵は諸君自身の自己なのだ。その自己の開発と浄化の中に、その自己の不滅性の中に,その中にのみ<永遠の王国>は存在するのである・・・・

 あなたはこのぐらい進歩した、霊的位階はこんなところです、こう言われることに諸君は慣れ親しんでこられた。なんと子供っぽいことであろう!!諸君が不滅であるかどうか、諸君以外の誰が諸君に語れよう・・・・・・・・

理解しようと本当に欲する人々、始めもなく終わりもない永遠なる<かのもの>を見いだそうとしている人々は,さらに大いなる熱情を持って進むだろう。そして彼らは、非本質的なすべてのものにとって、真実でないものにとって、影法師にすぎないものにとって、危険なものとなるであろう。かれらは全精力を集中し、炎となるであろう。なぜなら彼らは理解するからである。このような人々の連帯をこそわれわれは創りださなければならない。これが私の目的である。そうした真の友愛ーこれについて諸君はご存じないように思われるがーこの友愛によって、各人の立場に立った真の協力が成り立つことであろう。


このような「真の友愛」によるネットワーク。
辛辣に「見るコト」を土台とするネットワーク。
どのようなカタチであるのかはわからないが、このネットワークを見出すコトにたゆむことなく専念したいと思う。これはまだ直観であるが、それは「既に在り、今も在り、永遠に存在するカタチ」で見出されるのだと思っている。そのネットワーク上に「癒しと憩いの場」を創り提供するコトができたら楽しいかなと思う(ワクワク)。


岡山駅前の心療内科・精神科HIKARICLINIC (ひかりクリニック)
が一つの「こんな感じ」というイメージを提供してくれる。
フローティングタンクがあるコトも面白い!