神聖な安らぎ

言葉になる一歩手前で、「人間の内面」に落ち込んで「世界」の構築が始まる直前に、「人間の外面」にかすかな「不滅」の「抽象」があって、腹(ハラ)がそこに一致しているコトが、神聖な安らぎである。


それが「抽象」なのは、「前」が様々に変化して見えても、具体的にどこにいようが関係なく、
必ずいつでも存在しているからだ。まるでもう一つの世界への隠れた扉であるかのように、その扉は、「人間の外面」つまり「前」に在るのに、不思議にも具体性の中にはなく、「不滅」という「抽象」に在るとしか言い様が無い。


一致しているコトのこの神聖な安らぎこそを、いつでもどこでも求めていたコトが当然のように今はわかる。「これ」以外に何を求めるというのだろうか?当然の権利として、「自己」はいつまでもここにいていいのだ。果たして、「自己」はここ以外に在ったことがあっただろうか?「すべて」が何であるかが確信をもってわかっており、「これ」が「中心」であり、同時に「すべて」である。


ただ「ありのまま」が、神聖な安らぎにおいて輝いている。