「第四の道」再考01 - 内なる声

母が今日退院した。
MRIの結果では、レナリドミドによる脳梗塞は見られないというコトだった。一応Mタンパクは減少したものの、正常な血球も減少し、3週間の内に「免疫グロブリン」を2回、「白血球を増やす注射」を3回打った。何か腑に落ちない気持ちが残る。


今日のレッスンは10:Let me be still and listen to the truth.
じっと静かに真実に耳を傾けさせてください。(大内訳)
実は、もう3日間続けている。いかに雑念が多く、注意が散漫としているコトか。


『奇蹟を求めて』:

奇蹟を求めて―グルジェフの神秘宇宙論 (mind books)

奇蹟を求めて―グルジェフの神秘宇宙論 (mind books)

に一カ所「内なる声」について書かれた部分がある。

あらゆる神秘的、オカルト的な体系は、人間内部の高次の力の存在を認めている。もっともほとんどの場合、可能性としてだけであるが。そしてそれらは、人間の内に隠された力の発達の必要性を述べている。ここで今話している教えは、高次のセンターは人間の内に存在しており、また十分に発達してもいるということを肯定する点で、他の多くの教えと異なっている。
未発達なのは低次のセンターなのだ。我々が高次のセンターの働きを利用するのをはばんでいるのはまさにこの低次のセンターの発達不足、不完全な機能にほかならない。
前にも言ったように、二つの高次のセンターがある。
〈水素〉12で働く高次感情センターと、〈水素〉6で働く高次思考センターだ。
もし人間機械の働きを、センターを働かせる〈水素〉という観点から考えてみれば、なぜ高次のセンターと低次のセンターとが結びつくことができないかがわかるだろう。
知性センターは〈水素〉48で働き、動作センターは〈水素〉24で働く。
もし感情センターが〈水素〉12で働くことになっていれば、その働きは高次感情センターの働きと結びついているだろう。このような場合、つまり感情センターの働きが〈水素〉12によって生じる強度と速度にまで達している場合には、高次感情センターとの一時的結びつきが生じ、そこで人は、それまで全く未知の、何とも言い表わしようのない新しい感情、新しい印象を経験する。しかし通常の状態では、我々の普通の感情の速度と高次感情センターの速度の差は非常に大きいので、両者の間にはいかなる結びつきも起こりえず、高次感情センターから発せられ、我々に呼びかけている内なる声を聞き逃すのだ。

(p305:太字は私が付けた。斜体部分は、本の中では傍点が振られている箇所。)


昨日、NLPラクティショナーコースの初日だった。不思議に新鮮だった。「人間の外面」(要するに「目の前」!)には、いっぱい「注意を払える」ものごとが在るというコト。「観察」はとても楽しいというコト。Doingも楽しめる。逆にDoingを楽しむことがBeingを深めるのだ。無意識の何らかのセッティングがまたシフトしたのかもしれない。再び、「第四の道」の様々な練習が新鮮に蘇って来た。


ふと「注意」が目醒めて、シンプルに歩いている(自分の)その歩く様にじっくり「注意を払ってみる」。要するに、よく「見る」というコト。どんな些細な出来事も「新鮮」に眺めるコトができる。そして、それぞれがあまりにも「豊か」である。「人間の内面」に閉じこもっている場合ではない。ミ12*1は、そんな「人間の外面」に向けての注意のワークから産まれて来る。これは単なる概念ではない。実感し確証できる何かを「指し示す」概念である。


ミ12がハートに宿る時、確かに「内なる声」が呼びかけているのがわかる。
それは重力に従わない。
詩や歌の源泉が、そこに在る。
ホイットマンが闊歩した時、全身全霊を満たしていたもの。
「見るコト」から、既にそこに在った「内なる声」が聞こえ始めるというコト。

*1:「食物図」で示される、注意の意識的なワークの結果としての〈水素〉12。