共感することは、共感されること

耐え難い心の痛みや疼きがあるとき、
共感される必要があるというよりは、
些細なものでいい、人間性のほんものさに触れる必要があるのだということに、気がついた。
シンプルな人間の本質、イノセンス(無垢)の領域と言ってもいい。
その領域に触れると、痛みの核にある固さが溶けていく。


自分のイノセンス(無垢)が、相手のイノセンス(無垢)と出会う領域。
この領域では、私とあなたの境界が溶けている。


驚きの発見は、共感を求めるよりも、共感しようとする意図によってこそ、この出会いは得られやすいということ。この反転に大きな鍵があると、直観が告げる。


実際に起こることは、共感することによって、共感されることなのだ。


耐え難い心の痛みや疼きの背後にブロックされていた愛の流れが、再び堰を切って流れ出す。


イノセンス(無垢)の領域でのこの反転が、
あらゆる対話の可能性を開く。


失うものは何もない。
相手のイノセンス(無垢)を発見するとき、自分のイノセンス(無垢)が相手に届く。


対立を経験するコト

対立を避けることが暗黙の反応になって、
「対立」や「分離」が固定されてしまうのを、とても残念に感じる。


対立を無意識に避ける代わりに、対立を意識的に経験するコトはできるだろうか?
その火傷しそうな炎の中に、座り続けることはできるだろうか?


対立を経験するさなかに、「対立」や「分離」が本当に在るのかどうか「見るコト」ができたなら、人間のつながりがもたらす、とっても豊かな関係が立ち顕れると信じている。


「対立」や「分離」ではなく、豊かな多様性として、開花する「私たち」。


私がNVCを学び生きようとするのは、そんな「私たち」を生きたいから。


6月1日から7月7日迄、日本に一時帰国します♬
今回は、ゆうことNVCのワークショップを可能な限り開催します。


今日の朝明確になったこの想いを、多くの「あなた」とシェアできることを楽しみに♬


(イメージは、ハワイに伝わる火山の女神ペレ)

2015年1月13日(火)マウイに帰る便を待ちながら。。。メモ

ブログに書きたい、今年に入ってからの気づき
1. 「距離」が幻想だと明確にわかった瞬間が2度起こった。言わば距離がゼロになった。
2. 感謝は、もうその対象がもうこの世にない時、恩恵への流れとなる。
3. 帰属というニーズを深く味わい、自分と運命付けられていなことを素早く手放すという、IIT5日目に起こったシフト!

メモしとかないと、忘れちゃうもんね 笑

ひとつのいのち

丸一年ブログを書いていなかったことに、さっき気が付いた。
気づきがある度に何度か下書きはしたけど、投稿せずに終っていた。
この一年あまりに多くの体験があったらから、思考が追いついていかなかったみたい。。。
と、一応格好をつけてみる 笑。


その一年の体験を、改めてお腹で探ってみて、本質だけを抽出しようとすると、
いくつかの思考が、言葉を浮かび上がらせてくる。


誰も特に間違っていないし、また誰も特に正しいわけでもない。
ただ、それぞれのいのちを生きている様が、愛おしく、信頼に値する。


もし調和が在るとするならば、きっと既に在ったし、これからも在るのだろう。


それぞれのいのちが、何故今そこに脈打つのかは、永遠に謎なのかもしれない。
どうもその謎にこそ、調和そのものの姿が在るらしい。
ひとつのいのちという実体が、見え隠れする。


何が起こったとしても、
世界がどんな局面を見せたとしても、
隣人がどんな言葉を放ったとしても、
私がどう振る舞ったとしても、
このひとつのいのちという実体を、腹の芯で実感しているならば、
私は安心していられる。


ひとつのいのちという実体が、リアルに感じられる分だけ、
私にとって、世界は安全な場所になる。
心の平安がリアリティーになる。


誰もひとつのいのちから少しも離れることなどできないのに、
どうして私は孤立できると信じて込んでしまったのだろう?


表面的な話ではない。
苦しみの奥底の話だ。
絶望の淵に立った話だ。


「ひとつのいのち」という言葉に浮かれないでいたい。
絶望の奥底で、ひとつのいのちの実体を見つめていたい。


ひとつのいのちがリアリティーであると悟るなら、
死に対する恐れが導いているものすべてが、一瞬にして終焉するだろう。


一人の話ではない。
すべての人が関わる話だ。


私の思考さえも、孤立していない。
ひとつのいのちに脈打つ思考がある。
腹を通って全身に響かせながら言葉になる、そんな思考がある。


これは、そんな思考から産まれた西暦2015年最初のメッセージ。

意識的な調和

数多くの思想が、
数多くの宗教が、
数多くの教えが、
数多くの信念体系が、
悠久の歴史に登場して来た。


地球という一つの星で、
外側に掲げられたすべての団結のシンボルは、
みんなが一つになるという期待を担い、
様々な美しい言葉で修飾される情熱を鼓舞してきたが、
繰り返される常として、
その団結のシンボルが同時に、
帰属するか否かという二元性を迫る踏み絵として、
人々を分け隔てる不可避的な結果を導いてきた。


希望は、
外側に掲げられた団結のシンボルに帰属したい誘惑から、
注意と気づきのゲシュタルトを反転して、
内側の統合を生きるコトにある。


自らの内にひしめく多様性と矛盾を
何一つ排除することなく「見るコト」ができたなら、
文字通り重力に引きずられることのない、
意識的な調和がハートを満たすだろう。

少年と龍(ドラゴン)の歌

宙を舞う、人々の放った矢に傷ついた龍(ドラゴン)の、
背中にまたがって光の剣を携える少年は、
怒りに我を忘れる龍(ドラゴン)にただ寄り添って、その深き想いに耳を傾けるだろう。
憎悪の炎を放とうとする龍(ドラゴン)の、その炎にたとえ身を焼かれたとしても、
少年は、いつまでも龍(ドラゴン)の友達なのだ。


少年は龍とは友達であることを知っていた。。。


少年は、決して見たくないものを無意識に追いやることはしないだろう。
すべて排除することなく、全存在が奏でる意識的な調和を、少年は知っているから。
意識的な調和こそ、少年が「見る」と心に誓った「世界」の本当の姿。


メッセージが来る所

書くコト

ギリギリの所で書くこと。
見るコトと見られるコトが一致する所で書くコト。
外面を生きることができることが、わかる。
ワクワクのフローに乗るコトができる。
これは、私が高校を中退して独学している間に、ノートを40冊書きなぐって、編み出した技。
どう思われるかを超えてしまう迄、見るコト。
今何が起こっているのか?内側を見つめるコト。
広大な自己宇宙が立ち上がって来る、それが人間の外面だ!
内が外に繋がる(反転する!)。
そして、客観的世界が人間の内面で創り出された幻想だと悟る。
誰に書くのでもなく、自分のために自分をとことん見つめるために書く。
何が本当に「今ここ」で起こっているのか?
Hな気分が生じて来たら、そのこともじっくりと見つめてみる。
時々、言葉が追いつかなくなる。
名札が感じに追いつかなくなる。
言葉には限界がある。
人間の外面は、言葉を介して人間の内面で受け取られることもわかっている。
それでも、書き続けるコト。
これはとても面白い。
ワクワクの波動が思い出される。
脳が興奮して、自己宇宙が豊かさを取り戻す。
そこにすべてが在るコトは明らかだ。
ギリギリの所で書くコト。
他に表現のしようがないこの技。
自分にとっては、当たり前になっていた技。
スタックするのは、見るコトと見られるコトの分離が生じる時。
人間の内面に落ち込み、多数の他者が私を取り囲む。
人間の外面に立ち現れる自己宇宙を眺め続けるコト。
これ程、ワクワクすることはない。